ゾンビはそこにいるか

ーある喫茶店に浮かぶ、あらかじめ用意された気配を巡ってー

テキスト 城 李門

写真 勝美 里奈

 眼に広がる光景を、並々ならぬ数の歩行者は最終的にただ一つある目的のために「J」字を描くあらかじめ用意された道を移動するが、両脇から聞こえてくる小刻みな音は常にある目的への達成を阻害しようと試み、それはときに他者の実仕事に伴う音でもあれば、全く無用意に発せられる音でもあるのだが、それら独自の象る物語の自立と歩行者のある目的というのは常に相互干渉的な関係を「慣習」によって維持し続け、用意された道の間に--ちょうどドゥルーズ=ガタリの言葉を借りれば--<メロディーの風景>を完成させる。私が今年の幕開けに足を伸ばした川崎大師平間寺への参道で目にした出来事である。最寄りの駅から出てすぐの厄除門を通り、まだ午前四時前だというのにすでに人気の多い露店と即席飲み屋の並んだ初めの直線を一通り抜け、一度二度と道を曲がるとすぐさま両脇から「せき止め飴」屋の飴を切るトントントンとの音があちこちにやってきて、ある店は三三七拍子ともとれるような験を担ぐ調子で刃物を当てれば、ある店はそのような調子とは似てもつかない独自の調子で、本堂へと足を進める私の靴(ちょうど私の足のサイズに合わない大きな靴を履いてきたため、靴底が大きな音を立てて地面とぶつかる)とは異質の音を交錯させる。絶えずこれらが結集し、あるいは刃物を持つ手が止まりひとたび起こる風景の断絶、その変化に過剰に振り向いてしまう私自身の見えない外部への依存に気づかされるこれらの関係と圧巻の風景は、参詣という儀式をそれたらしめる一つの要因となっていることは今更言うまでもないが、こうしていくつもの音の交錯する参道を歩いていると、ちょうど半月ほど前に演奏された安野太郎氏とゾンビたちの、喧騒とは裏腹の慎ましげな四重奏が急に思い出された。

 江古田駅近くの地下にある少し広めの喫茶店へ入ると、安野がすでにエア・コンプレッサーの電源を入れ空気を充填していて、店内はその音でほぼ空間が満たされている。王道ゾンビ映画の展開として、来場客は物語中で突如予期されないものとして到来するゾンビの幻影を上映前からすでに予感しているものだが、まさに状況としてはそれに近く一見すればリコーダー四台の音色が今にも響くであろう意思なき外見とコンプレッサーの音を無視し得ない状況で安野の再生指示をただ待つばかりである。安野が手元のPCによってゾンビらに人工の指の動きを制御し空気を送り込むと、どうやら息という概念を知らないような一続きの音が発せられ、指が不規則に追いつき少しリズミカルな音程が響き始める、まるで空気を過剰に摂取し全身が震え上がる状態が続いているような不気味さであり、もちろん四台のゾンビたちには目的もなくその意識もなく、しかし私が感じ取るリズムは次の瞬間すぐに転換し裏切られ、その繰り返しは喫茶店それ自体がどこか緊張感を帯びているようだ。人工声帯を手に入れた中央にあるブブゼラの音に似た声のしたゾンビクイーンとともに、そのリズムが人間の力能では実現することのできない複雑な手の動きと息の長さが最高潮を迎えると、安野によって空気は打ち止められ、すぐさまに楽器たちは勢いを失う。こうして書いてみると、あまりにも私の語り口はゾンビに肩入れをしているようであるが、素人目には過剰ともいうべき多色・多種な配線の圧倒的な外見と、四台のリコーダー、そして吹き口へ送り込まれる空気の流れを前にすると、機械とはもはや言えず、どこにも生命体らしきものはないのだが、どこか演奏者がいるかのような、その気配を喫茶店の中に感じずにはいられなかった。

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